MUSIC WORLD BY MASANORI KATOH
 
奇人の作り方
 

 

 
 
 
 
 
 


 

1:予備知識として

 時は江戸時代も終わり。
 黒船が来航し、異国への憧憬と時代の変革の波が次第に高まってきた頃、会津藩主、松平容保(かたもり)の下に幕府より京都守護職の命が下りました。京都守護職とは言わば朝廷の監視とともに、すでに幕府に対しての抵抗勢力が力を増し、かなり乱れていた京都の治安回復の役目でした。幕府の栄光の陰りは、最早そこまで深刻だったのです。会津藩の老中、西郷頼母(たのも)は時勢を読む力に優れ、松平が守護職を引き受けるのを家臣としてただ一人辞めるよう進言したのです。
 しかし他の家臣は名誉ある幕府の命に対してなぜ断る理由があるかと猛反発。西郷は孤立した立場になってしまいます。
 若いながらも真面目、堅実、実直という言葉がふさわしい松平はこの命を受け、京都へと向かうのです。
 京都で松平はその命を懸命に務めます。京都の治安に鋭く目を光らせ、治安を驚く程回復させます。またその働きぶりは当時の孝明天皇からの信頼も得ました。
 しかし倒幕の力を収める事はできず、孝明天皇崩御の後間もなく、幕府は滅びてしまいます。大政奉還は、優柔不断の慶喜の突然の敗北宣言とも言えますが、勢力を一気に高めた薩長軍は幕府側の藩の一掃を叫び、最後まで幕府側についていた会津藩に対して、攻撃を続けます。京都の浪人など、会津を快く思っていない輩も含まれ、それは見せしめ的な盛り上がりになっていたと言えるのです。

 大政奉還の後、会津に戻っていた松平は、この薩長の攻めに対して、福島方向からの攻めに備え、多くの兵を従え国境で堅陣を固めていました。ところが、敵はすでに会津の四方を囲み、その一つである猪苗代方面から攻め入ってきたのです。会津の兵は、年齢によりいくつもの部隊に仕分けされています。一番若い「白虎隊」は16、17歳の青年が属します。そしてその中でも1番隊、2番隊に別れ、2番隊はまだ少年から青年に脱皮する過渡期にある若き男子が属する隊でした。
 猪苗代からの攻めがあった際、主要な兵は前記の様に他方にありました。白虎第1隊も藩主に随行していたため、会津城下内を守るのは、女、子供、老人、そして若い白虎第2隊しかなかったのです。これも悲劇の要因の一つです。
 
 ところで、会津には日新館という、寺子屋が大きくなった様な立派な学校がありました。上級武士の男の子のみが入学を許された学校ですが、全国でも2本の指に入るくらいの優秀な学校で、文武に秀でた人材を育てました。武士道を重んじ、十戒の様な教えを子供達に説きます。「年長者にそむいてはなりませぬ」「うそをついてはなりませぬ」「ならぬことはならぬものです」など。
 この武士道教育は、若い少年に正義感、使命感、強い精神力や忍耐力などを植え付けました。白虎隊のなかにも身分による階級があり、日新館出身の上級武士の子は士中隊に属しました。薩長の攻め入りを知った時、まさにこの白虎士中2番隊の20名が進軍の許可を申請したのです。死を恐れる者など誰もなく、母親に別れを告げ、戦いへと急いぎました。

 不運もありましたが、敵の攻めは圧倒的で、数人の重傷人もだし、間もなくに撤退になります。城下に引き返し会津を囲む飯盛山の中腹でみたものは、燃え上がる鶴ヶ城の光景でした。会津の敗北を確信した若き白虎隊は、武士道の教えにのっとり、全員自刃を決断します(日新館では自刃の仕方も教えています)。白虎の命はここで果てますが、一人だけ生き残ります。その生き残りがこのオペラの主人公、飯沼貞吉、後の飯沼貞雄です。

 ちなみに白虎がみた燃え上がる鶴ヶ城は正確にいうと城の周りが燃える状況でした。城はまだ無事だったのです。飯盛山の自刃の場から鶴ヶ城を眺めてみると、双眼鏡でもない限り、城の状況を正確には把握できないことがわかります。城の周りが燃えているのを、城が燃えていると勘違いしたのも、彼らの経験の乏しさとも言えるかもしれませんが、こんな若い子供達が会津を守ろうと必死になった、ならざるを得なかった、悲劇の帰結だったのです。

 オペラは、現在も行われている鎮霊のために捧げるこの自刃の舞を見つめる晩年の貞雄の登場から始まります。